塩化カリウムのザッピング

暇人がお送りする暇人のための雑記?ブログ

私たちは本当に存在しているのか

 おはようございます。塩化カリウムです。今回は、私たちは本当に存在しているのかという壮大なテーマについてです。

 

「水槽の脳」というのをご存知でしょうか。水槽の脳とは、人間が体験しているこの世界は実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢ではないか、という仮説です。


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私たちが見ているこの世界は全て、送られてきた電気信号にすぎないかもしれないという恐ろしい仮説です。
とても恐ろしいのですがこの仮説を否定できる材料はありません。「私はここに存在してるんだ!」といくら主張しても「存在してるという感覚すら電気信号が送られているだけにすぎない」などと言われておしまいです。

この水槽の脳と似た考えがデカルトの「我思う故に我あり」という言葉です。全ての物事の存在は疑うことができる。今見ている物も感じていることも本当は存在しないかもしれない。しかし「疑っている私の心」だけは確実に存在しているという意味です。

水槽の脳もデカルトも、あらゆる物事の存在を疑うことができるという意味で共通しています。

 

「私」とは何かという議論。10代の自分と60代の自分はまるっきり別人でしょう。考え方、しゃべり方など、どれをとっても大きく変わっていると思いますが同じ人間だと言えるでしょうか。

考え方などが変わっても記憶が連続していれば同じ人間だという主張があります。しかし記憶の連続性が重要なら、記憶喪失になってまるっきり人格が変わってしまったら別人になってしまうということでしょうか。

記憶が大事なのか人柄なのか肉体が同一ならば同じ人間なのか、それとも昨日の自分と今日の自分は別人といったように、移ろいゆくもので確固たる自分は存在しないのか。とても難しい問題です。

 

この問題は輪廻転生があるのかどうか、という問いに対する重要な意味を持ちます。輪廻する「何か」が存在するということは、自分の中に確固たる「何か」が存在することになるからです。「何か」というのは魂でも我(が)でも言い方は何でもいいですが、とにかくそういうものが存在するか否かで死んだら終わりなのかそうではないのかが変わってきます。

仏教では輪廻が存在するか否かの決着が未だについていません。ブッダが輪廻の有無をどう考えたかについても大きな議論が交わされています。しかしブッダは「毒矢の教え」というものを説き、本体論(存在論)を問うことを禁じていました。

「毒矢の教え」というのは、

毒矢に射られた人が、射た人の名前や家柄、弓矢の種類・性質などを気にするだろうか。それを気にする前に毒矢を抜いて治療するべきだろう。

それと同じで存在論うんぬんを気にする前に、煩悩があるのだからそれを消すために修行するべきだ。

という教えです。考えても意味の無いことを考えるより、今ある問題解決のために修行しようという考えですね。

この教えは色々なことに通じると思います。いくら考えても分からないことを考えるより、行動していった方が結局は進歩しますよね。私も答えのない問いに頭を悩ませて目先のことに集中できなかった時期がありました。耳が痛いです。

 

 

こういう問いを考えることは重要ですし、考える力がつきますが、考えすぎるのも良くないですね。自分ができることを一生懸命やすのが一番です。

今回はここまでです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。